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常識は日々変化していく

前回のコラムで、「常識」は万国共通のものではなく、 海外では日本人の常識に知らずしらずのうちに囚われてしまうということを述べました。今回はその続きとして、「常識」は国や国民によって違うというだけではなく、日々変化しているものであって、一歩間違うと非常識な言動をしていると誤解されることが多い点について触れてみたいと思います。

ポストはなぜ赤い?それって常識じゃないの?人間はそれぞれ無意識のうちにこれはこうあるべきだとの思い込みがあるものです。つまり一人ひとり心の中に独自のフィルターを持っています。素直な気持ちで物事を見て判断しようと思っても、何らかの色眼鏡で見ているものなのです。その色眼鏡を通して見た世界が一番正しいのであって、その姿に異を唱えるものや違った意見が出てきたときには、自分自身のアイデンティティを全て否定されたような受け止め方をしてしまいがちな人が最近増えているように思います。いわゆる感受性のしきい値が非常に低くなってきているのではないでしょうか。

例えば昨年いろいろと話題になった芸能人や政治家の不倫報道や、法的には何の問題もないことが明らかなのに政治家の圧力に忖度したとかを延々とモリカケばかりやっている野党の意識の低さ、安全保障が深刻な問題になっていることはほぼ国民の共通認識であるにもかかわらず、反権力こそが正しいジャーナリズムだと信じて疑わないお花畑のマスコミなど、どこでそんな常識のフィルターを身につけてきたのか非常に不思議になることが多いのです。

私自身は、学生運動まっさかりの戦後教育の団塊世代よりは数年下になりますが、戦後教育を受けた年代には違いありません。でも、左翼的思想に対しても、いわゆる超右翼に対してもずっと違和感がありましたし、会社員になってからは常に海外との取引に関する仕事をやってきて、諸外国の国民が持っている常識の違いとかは大変勉強になりました。ただどこの国も共通していたのは、それぞれの国民は例外なく自分の国に対して誇りを持っていましたし、政府に対する批判はあったとしても国の存在そのものを否定するような人はほとんどいませんでした。いわゆる無政府主義者と言われる極端な思想の持ち主以外にとってはごく当たり前の常識であろうと思います。ところが、日本、特に左翼系と言われる政党やメディア、組合、NGOなどは、決して日本国、日本国民という言葉を使いません。いわゆる戦前の亡霊とでもいうのでしょうか、日本国、日本国民という概念は彼らにとっては、戦前の大日本帝国を連想するフィルターがかかっているわけです。自分の国を貶めることが使命であるかのような人が一定数います。常に彼らは自分たちを日本国民とは言わず、「市民」とか「地球市民」と呼び、「市民団体」こそが全ての正義であるという言い方をマスコミ報道でよく見かけます。

今まで、海外でいろんな国の人と交流をしてきたおかげで、私自身は少なくとも平均的な日本人よりは一つの考え方に固執しない常識を持つことができたと思っています。左翼から見れば私などは超右翼に見えるのでしょうし、逆に右翼から見れば軟弱な国民と映るのではないでしょうか。できる限り一つの常識には凝り固まらないような生き方をしたいと思ってきました。

常識そのものはどんどん変わる

芸能人や政治家の不倫をスキャンダルのごとくメディアが暴いて正義感を振り回し、断罪して仕事まで自粛させることが続いてきました。これが覚せい剤など犯罪行為であれば別ですが、不倫現場をスクープすることが、国民の関心が高いといった理由で大上段で非難する、謝罪させる、辞任に追い込んだり、仕事を下ろさせる・・・いわゆるこれが日本の常識感覚だったわけですが、私自身は何かおかしいと思っていました。ところが、最近小室哲也さんの不倫を週刊文春が今までと同じようにスクープしたところ、風向きが変わってきたように思うのです。小室哲哉さんは奥様のケイコさんが脳卒中で倒れてから支え続けてきたのをファンの皆さんは知っています。それで今回の問題で小室哲哉さんは引退すると発表されたのです。ここで一気に流れが変わってきて、不倫を暴かれた小室さんに非難が向くのではなく、週刊文春の傲慢さ、驕りといったメディアが不倫を飯のタネにしていったい何様という批判が渦巻くようになってきたのです。おそらく今回をきっかけにいわゆるスキャンダルの基準というものについても「常識」が変わってくるのではないでしょうか。

芸能人や政治家の不倫問題などは他人がごちゃごちゃ言うべきことではないと思っていますし、ゴシップだ、スキャンダルだと騒ぎ立てる方の常識を疑うのです。不倫というのは本人同士の問題に過ぎないわけで、決して他人を傷つけたり麻薬のような刑事犯罪事件を起こしたのではありません。マスコミが取り上げるたびに芸能人がマスコミの記者会見で「お騒がせしてすみません」と謝る姿をTVで見るたびに、マスコミの芸能記者はいつ裁判官になったのか!と思わず叫んでしまいたくなります。何か、芸能記者がお代官になって、姦通罪で市中引き回しの刑を執行しているような嫌な気分となります。「不倫は悪だ!」という彼らの常識に逆らうと叩かれそうですが、いわゆる常識という社会一般のコンセンサスは、今はそうというだけのものであって、これは時とともに大きく変化していくことを理解する必要があります。

例えば、今、外国人が増えている中で、外国人犯罪件数がどんどん増えているのは事実です。そして、そういった不良外国人の行為を批判したり、外国人の入国管理を厳しくするべきだとの意見が出るとき、昨今では十把一絡げに「ヘイト」とされてしまい、いわゆる差別主義者だとのレッテルを貼られてしまいます。これはやはり何かおかしいのです。本来、差別とかヘイトとかの概念は、本人が生まれながらに持っていて代えられない身体的特徴や民族の違いを理由に不当に差別を受けることに対して非難されるべきものであって、その国で非常識と判断されたり法律違反を犯すことに批判するのは決して差別ではないと思うのです。ところがその常識そのものも外国人の数がどんどん増えてくると変わってくることについては留意しておくことも必要ではないかと思います。外国人にルールを守れということ自体がヘイト扱いされないように願っています。

タバコの規制についても、過去の常識からは大きく変化しています。私がアメリカから帰任した90年代半ばのことですが、アメリカでは職場で禁煙は当たりまえでした。ところが、当時の日本では、事務所の中であろうと、会議室であろうといつでも自由にタバコが吸えたのです。国際線の飛行機の中でも喫煙席と禁煙席があって、離陸するとすぐに禁煙サインが消えて喫煙席からタバコの煙があがり、当然禁煙席セクションにも煙が流れてきます。当時は受動喫煙すら問題にはなっていなかったのです。会社では少なくとも会議では禁煙にしてほしいと何度もお願いしていたものです。ところが、いまタバコに関する常識は大きく変化しているのはご存知の通りです。私が就職した当時の喫煙率は成人男性で約75%だったのですが、今や15-16%ぐらいにまで落ちていますから、何十人の忘年会でも誰も吸わないことがむしろ常識になっているのです。この流れで受動喫煙規制がどんどん強化されているのですから、喫煙者がいくら抗ってもこの常識の変化は止められません。少しでも自分の吐いた煙が他人に気づかれた時点で、この人は常識がなく信頼の置けないとレッテルを貼られるようになってくるのは間違いありません。今だ小規模の飲食店が喫煙規制反対と自民党と結託しているようですが、禁煙を強制されたら売上が落ちるという立証のできない推測で無理筋の政策を押していっても、おそらく今後タバコが吸える店には客足が落ちるのは間違いないということも考える必要があります。

例えばマクドナルドの経営が復活し、一方でモスバーガーが不振にあえいでいる理由の一つに、マクドナルドは全面禁煙に踏み切ったのに対し、モスバーガーは分煙を貫いたことで客足が遠のいたからという見方もあるようです。もちろんそれだけではなく、店舗戦略の失敗であるとか商品政策の間違いなども要因として分析されていますが、事実私自身も昼食をとるときに横で自由にタバコを吸われるとせっかくの昼飯がまずくなるので、極力喫煙可のレストランには行かなくなり、そういえばモスバーガーにはほとんどいかなくなりましたね。

海外取引での常識に注意

海外取引では日本人の常識では考えられないことがよく起こります。例えば中国では買掛金の支払いを遅らせて資金を確保できる経理担当は優秀と見なされるということや、仕事で失敗したりルール違反をすると即罰金というように、日本では常識として不当行為と思われることすら推奨されることがあります。他にもあげればきりがありませんが、大事なことは日本の常識から外れるからといって批判しても何もならないということです。

アジア展開で悩みが大きいのが、公務員からの賄賂要求です。日本の常識からすればコンプライアンス違反なんだから断固拒否するべし、以上! としか言えないのですが、果たしてそれはその国の常識を本当に理解しているのでしょうか。賄賂にはその国の歴史的背景や文化的土壌、公務員の待遇の問題など複雑に入り組んでいます。そう簡単に日本の常識だけで判断できるものではないのです。しかし、賄賂を推奨しているわけではありません、やはり法律違反には違いないのです。じゃあ、どうすればいいのでしょうか? また賄賂も国ごとの違いだけの理解ではリスクが大きいと言えます。同じ国でも、日本の常識は時代を経るごとに変化してきたと同様、賄賂の概念もその国での常識の範囲も刻々と変化していることは絶対に理解しておかないと大変なことになります。

「じゃあ、どうしたらいいんだ?!」・・・・・
今日はここまでということで。