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海外の文化の違いを日常生活から気づくことの重要性

海外展開された企業に出向されている多くの日本人は、日々体験する文化の違いによるフラストレーションを多く抱えています。「なぜ、●●人は時間を守らないんだろう」「何度言っても同じミスを繰り返す」「なぜ他人の迷惑を考えずに勝手な振る舞いをするんだろう」・・・などなど。しかし、これらの原因となっている多くは、●●人の性格や能力に問題があるのではなく、日本人自身が今まで生きてきた経験に基づく価値観、文化の違いによるパーセプションギャップ(認知相違)によるものです。日本人にとっての当たり前の感覚、つまり常識や正しい認識というものは、あくまで一方向によるものであって、反対側から見たらそうではないことは往々にしてあるものです。

近隣諸国との歴史認識による問題にしても、国内でもイデオロギーの違いによる政治的対立にしても、常に片方の価値観に立ってみることしかできない人々にとっては、到底お互い理解し合えず、常に自分側が正義であって相手は悪の存在であるという見方しかできません。相手側の存在そのものが許せなくなるため、一方的に相手を攻撃して抹殺してしまおうという過激な批判や暴力的な行動に出ることが見られます。最近では、LGBTに関するある雑誌の投稿がきっかけとなり、実際雑誌で述べていないことまで拡大解釈して、相手を差別主義者だと決めつけ、社会的に抹殺しようとする動きが過熱して、遂に雑誌が休刊するまでに至っています。LGBTについてどう考え、どう受け止めるかについては、人それぞれの価値観があるのが当然と思うのですが、あらゆる人が一つの普遍的価値観をもつべきで、それに反するあらゆる言動を行う人の存在を許さないという風潮にはある面恐ろしさを感じています。

多くの海外で仕事を経験し、その国の人々と交流することを通じ、価値観というものはそれぞれ違って当たり前ということを痛切に感じます。決して一つの価値観に基づく相手への嫌悪感や批判はやるべきではないと思うのです。だいたい自分自身の正義観を振りかざす人ほど碌な人はいませんね。私自身、できる限り多面的な見方、双方の考え方、価値観を理解したうえで、より一段広い視野と公平な判断力を備えたいと心掛けてきました。そういった一段広い視野を持つには、できる限り生活の実態に近いところで様々な人の様子を観察したり意見を聞いたりすることが有益です。

ベトナム人の生活実態から価値観を知る

私はベトナムとの関わりが長く深いのですが、実際駐在していた4年間では感じられなかったことでも、その後コンサルタントとして独立してからの出張でも、よりベトナム人の生活実態に近い体験を広げることにより、今まで見えていなかったことも新たな発見となることが多くあります。

例えば駐在していたときにも、自宅近くのスーパーマーケットを何度も利用していましたが、最近できたビンコムメガモール内にあるスーパーで新たな驚きを覚えました。この写真は何の売り場だと思われますか?何と牛乳だけの棚なのです。日本では信じられないことですが、牛乳だけで2列の表裏の棚に加えワゴンに平積みにもなっています。また、すぐ隣の壁沿いの棚は、ヨーグルトだけで埋め尽くされています。一見、本当にこれだけ売れるのかと疑問に思ってしまいます。しかし、スーパーマーケットの棚は容量が限られていますので、動かない商品で棚を占有し続けることは通常考えられません。ということは、大規模ショッピングセンター内にあるスーパーマーケットでの棚構成を定点観測で見ることで、売れ筋商品の傾向をつかむことができます。確かに他のスーパーマーケットでは、これほどではないにしても結構乳製品の売り場は、日本のスーパーと比較しても結構広いのです。つまり、ベトナム人の食生活の動向もうかがいしることができ、どういった商品が好まれているのか、その価格動向や好まれるデザイン、パッケージも含め、大変に参考になります。

 

騒音に関する感じ方の違い

日本人にとってベトナム人の文化、感覚で戸惑うことの一つに、「騒音」に関するとらえ方があります。日本人は他人迷惑ということに対して非常に敏感です。マンションなどでは生活騒音でよくもめることが多いものです。テレビや話し声などの音漏れがクレームされたり、洗濯機も夜の運転は控えるというルールが設定されたりします。電車の中でもイヤホンからの音漏れを細かく注意されたり、携帯電話はマナーモードにして通話はしないように注意を受けます。音に関するマナーに極端にうるさいのが日本の文化の一つであるといえます。

ところが、海外に出ると音に対する感覚は全く違います。音で他人に迷惑をかけるという意味があまり理解されません。香港や中国では、電車の中で通話しているのはごく普通の風景ですし、誰も迷惑がっていません。ベトナムでは、一日中バイクや車のクラクションが町のいたるところで鳴り響いていますので、静かにするというマナーはないといっても良いと思います。自宅においても、窓を開けっぱなしにして夜遅くまで大声でしゃべっていますし、巨大スピーカーで好きな音楽をガンガン鳴らしたり、カラオケを楽しんだりしています。それも誰も文句を言いません。

実際、ベトナムで宿泊したホテルが町の中心地であったとき隣が巨大なディスコでした。音漏れというような程度ではなく、12時過ぎまで低音のドラムやベースの突き上げるような振動でよく寝られませんでした。駐在していたときも、アパートの近くで路上で結婚式披露宴やイベントがあったときなども、どでかいスピーカーで音楽をあえて外に向けて聞かせていたものです。これが日本なら、クレームの嵐となるでしょうが、こちらの人は全く何も感じていないし、日常の生活シーンの一つに過ぎません。

ややもすれば他の国でフラストレーションが溜まるのは、日本人としての常識、感覚から許せないという感情が先に立ってしまうからで、現地の人の生活に近づけば近づくほど、まあそういうものだと理解できるようになってきます。歩道を逆走して走ってくるバイクにも何も腹が立たなくなってきます。危ないことには違いないのですが、たとえ問題があるようなことでも、矛盾を抱えながら社会が成り立っていて、その問題をすぐには解決できなくても、時間をかけて解決したいと努力している姿を理解できるかどうかで、その国の人々の価値観が見えてくるのです。その段階に達して初めて、相互理解の窓が開いてくるように思います。

常に自分の価値観が正義で、相手を批判することで、自分のアイデンティティを自覚できるという上から目線の生き方はしたくないと思っています。