ベトナム人のすごさ ~最も驚いた出来事~
私がベトナムと関わって既に10年近くになりますが、今まででベトナム人を見て最も驚いたこととは一体何だと思われますでしょうか。仕事や日常のお付き合いを通じて様々なベトナム人を見てきました。しかし、私にとって一番強烈な印象を覚えたのは、ホーチミンで一瞬の通りすがりに見たベトナム人のことでした。ベトナム人が持っている「生きる力」の凄さをまざまざと見せつけられたのです。私は彼を見て人生観が変わったといっても良いほど、忘れえぬ出来事だったと思います。でも、彼とは一言も話していないのです。さて、その出来事とは・・・・
ホーチミンのベンタイン市場で
今から約2年前のことだったと思います。仕事でホーチミンに出張に行っていました。ご存知の方も多いと思いますが、ホーチミンのベンタイン市場の前の通りでは、夜には多くの夜店が出て観光客で賑わいます。よくホーチミンには仕事で行くので、あまりベンタイン市場には立ち寄らないのですが、その日は夕食を近くでとったため、ぶらぶらと夜店を覗いていました。
人出も多くざわざわとした雰囲気でした。すると、近くから地面を何かが引きずっている音が聞こえてきたのです。音の方を振り向きますと、人が地面に倒れているのが目に入りました。誰か気分が悪くなって道に俯せになったのか、それか酔っ払いか何かふざけているのかと思いました。でも、全然違う、信じられない光景が目に飛び込んできたのです。
よく見ると地面を人が這っているのです。しかも・・・・これは一生忘れられない姿でした。何と、両足のない障がい者だったのです。ベトナムには戦争の悲劇の影響から、身体に障害を抱えておられる多くの方がおられます。でも、その人は単なる障がい者ではありませんでした。首からタバコやお土産などの商品が詰まった弁当売りのような盆をぶら下げ、夜店に来た観光客に物売りをしていたのです。じっと一か所に座って物売りをしているのではありません。両手にゴムスリッパ(手にスリッパですよ!)をつけて、腕で盆を抱え、手と胴体で這いまわって物売りをしていたのです。胴体で這いまわっているわけですから、もちろん服も手足もボロボロです。物売りとして客に売り込みをしようとしても、客がしゃがまない限り取引ができません。あまりにもすさまじい光景を目の当たりにして、商品を買ってあげようという思いにも至らず、ホテルに帰ってから何故商品の一つも買わなかったのか非常に後悔したのです。
ベトナム人の生きる力
ベトナムに何度も行かれている方は気づいておられると思いますが、ベトナムでは浮浪者を見ることがほとんどありません。発展途上国の多くでは、空港を出た途端多くの物乞いに出会うことはごく普通です。町に出ると多くの貧民街があり、街角のあちこちで物乞いの姿をよくみます。ベトナムはまだ裕福な国ではありません。着実に成長発展していますが、貧困にあえいでいる国民も多くいます。でも、物乞いはほとんどいないのです。これはベトナム人全体に言えることですが、たとえ貧しくとも生きる力は他の国よりも格段優れているからだと思っています。たとえ、クビになって仕事がなくなったとしても、一文無しになったとしても、何をしても生きていけるのがベトナムです。将来を悲観して自殺したというようなニュースもほとんど目にしたことがありませんでした。個人として生きていくためなら、家族のためなら、何でもできる、この精神力の強さこそが障がい者の物売りの姿にダブって見えたのです。
社会保障が進んでいる先進国では、国、社会、企業、NPOなど様々な団体、公的機関が障がい者に対して幅広い支援制度を整備しています。ベトナムのようなこれから発展していく国では、制度的には十分な支援制度ができていません。重度の障がい者であれば、本来なら物売りなどするまでもなく、手厚い生活保護があって然るべきですが、まだまだ社会基盤の整備が十分でないベトナムにとって目が届きにくいところかと思われます。
支援制度の未整備について、日本政府や日本企業、NPOなどがODAやCSR活動などを通じて貢献できる分野は多いと思います。しかし、私がどうしても理解の範囲を超えていたこの出来事は、両足のない障がい者が、手にスリッパをつけて地面を這いつくばってでも物を売って商売して生きていこうとするバイタリティは、一体どこから来ているのか不思議で仕方がなかったのです。彼はどういう環境でこの物売りをしていたのかは知る由もありません。ただ、たとえ養っていかねばならい家族がいなかったとしても、そこまでして商売する必要などないではないかと思ってしまった時点で、完全に上から目線で物事を見てしまう自分に嫌悪感を覚えてしまいました。
働ける能力も力もあるのに働く意欲に欠け、生活保護に頼って生きて国から給付を受ける人が多い日本の現状は何と贅沢なことかと感じます。昨今、日本人の多くの人に、自分自身の努力や生き方の振り返りもせず、何でもかんでも悪いのは他人のせい、世の中のせい、国・政府のせい、政治家のせい、と他責にする風潮が高まっているような気がします。障がい者であろうと健常者であろうと、「生きる力」は他人が与えてくれるものではありません。「働き方改革」で残業問題に焦点が当たりすぎているように思います。「働く」ことは「生きる」ことの手段であって決して目的ではありません。でないと人生の意味が失われてしまうことをつくづく感じます。「働く」ことによって「生きる」ことの障害になることがあるとすれば、その「働く」手段は間違っているのです。まして「生きる」ことを不可能にしてしまうような加重労働や危険な環境、陰湿ないじめや暴力などが蔓延る職場があるとすれば存在が許されるはずはないのです。
それぞれの能力の範囲でお互い頑張って支え合いながら生きていける社会の実現は、むしろベトナムの方が近いのではないかと思う今日この頃です。