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海外出張で人生観を変えた国とは

私が生まれて初めて飛行機に乗ったのは国内ではなく、社会人になって初めて台湾に行った24歳のときでした。入社したのが貿易関係の会社でしたので、それから早期定年退職するまでほぼ一貫して海外関連の仕事を担当した関係で、海外駐在勤務はアメリカ、イギリスとベトナムの三か国で13年余り、出張経験を含むと訪問したことがないのが南米とアフリカのみで、合計数十か国を旅してきました。幸いにもこんな国には二度と行きたくないと思ったところは一か国もありませんでした。

その中で最も人生観が変わった国がどこだと思われるでしょうか・・・・?

その国とは、「インド」

インドには日本からの出張で1995年から4年間の間に3回ほど訪れただけでした。長期滞在していたわけではないので、あまり深くインドについて理解したわけではないのです。しかも私の人生観を変えた経験は最初に出張で行ったとき、仕事とは直接関係しないことでした。

カースト制度から実感した輪廻転生の人生観

インドのカースト制度については知識としては多くの方が理解されておられると思います。ヒンズー教徒でもない日本人にとしては、単に宗教に根差した身分差別の制度だろうという理解をしていました。身分差別の問題を外国人が自分たちの文化や宗教観から不当な差別だと非難するのは安直であろうと思っていた一方、実際ヒンズー教徒でカーストの下層にいる人たち自身は、差別されていることをどう感じているのだろうと疑問に感じていただけでした。差別に対する抗議や反対運動をなぜ行わないんだろうと思っていました。

そして初めてデリーに夜に到着し、現地法人に駐在されておられた方に空港で出迎えていただき、会社の車でホテルに向かっているときのことでした。当然社用車はインド人のドライバーが運転しています。ところがそのドライバーは私たちが乗ってからずっとブツブツとつぶやいているのです。何か不満でもあるのかな、それとも問題を言いたいのかなと不思議に思っていました。

そして駐在員の方にこのドライバーは誰に何を話しているのかと聞いたところ、実はこのドライバーはカーストの下層の人でお祈りをつぶやいているというのです。さらに不思議になり、なぜ運転中にお祈りを唱えているのかと聞くと、私の人生観を変える説明があったのです。

それは、「今のカーストの身分で生まれてきたのには前世に起因がある。ヒンズー教の教えは、前世の行いの結果、今の身分となって生まれてきた因果応報での輪廻転生の姿である」というものでした。つまり今の身分は自分自身に原因があって、他人から差別されているとは考えていないのです。現世でひたすら神に祈り続けることで、来世でより高い身分で転生したいと願っている姿だというのです。したがってカースト制度で差別されていても誰も恨んではいないため、この制度は延々と続いているのです。

普通、誰かから差別を受けると相手を憎むことはあっても、自分自身にその原因があるとは思わないものです。当時私自身は死んだ後は人はどうなるのかについては全く考えもしていませんでしたし、特定の宗教を信じることもありませんでした。輪廻転生も言葉としては理解していましたが、現実とはかけ離れた宗教の一つの教えぐらいにしか思えませんでした。

仏教を通じて改めて考える輪廻転生と今後の人生

仏教はインドの釈迦を開祖とする「大宇宙最高の悟りを開かれた教え」であり、他の宗教のような創造主としての神を信仰するものではないという違いも当初はよくわかっていませんでした。「仏の教え」ですからいろんな解釈もあり、仏教が伝来した日本での仏教でも宗派や考え方がいろいろと分裂しています。ヒンズー教では「輪廻転生」の考え方は固く信じられている一方、日本の仏教では「輪廻転生」についてはそういうものはないと言い切っている宗派や説もあります。一方、「六地蔵」があるように「六道輪廻」の解釈があるのも事実です。

宗教にはいろんな考え方はありますが、共通しているのは生を受けて死ぬまで人としてどう生きるかのテーマをどう極めるかであろうと思います。前職ではいろんな国で様々な宗教の信者の人々と交流をしてきましたが、仕事中もそして個人生活においても、あまり宗教について深く関わることはありませんでした。インドでの体験もそれをきっかけに何か宗教について考えたこともありませんでした。

しかし年齢を重ねていく中で、周囲でも家族や知人を問わず見送ることも増えてきました。自分自身も日一日とこの世を去る日が近づいていることは確かであることを感じるようになってきました。明日死ぬかも知れませんし、5年後なのか10年後なのかわかりませんが、いつの日か100%死にます。

早期定年退職して個人事業を立ち上げたあと、特に動機はなかったのですが、バイクで四国八十八か所のお遍路回りをしてきました。いろいろ大変なこともありましたが、弘法大師様の思いに触れる同行二人の旅で何とか結願しました。八十八のお寺を参拝し納経する経験を通じ、自分の残りの人生と死後について考えることが多くなったのは確かです。

日本の仏教では魂は生き続けることは論理的にあり得ないと「輪廻転生」を否定する僧侶が多いように思いますが、仮に魂は生き続けていくものとして、今の私の魂なり自分の意識というものが前世から引き継がれたものであり、来世には六道のどれかに転生するかどうかは誰もわかりません。

一方で、前世を覚えていたり、胎児記憶のある子供たちが何千人もいたり、臨死体験をして生き返った人が見た死後の世界の語りが全て嘘とは言い切れないことも事実です。それならば「輪廻転生」はないと断言するよりも、現世と転生を因果の関係として、残された人生の使命をとらえ、どう生きていくかを考える方が自分の人生の幕切れに向けた生き方にふさわしいのではと思うようになってきました。

何か特定の宗教に帰依するというのではなく、自分が今この世に生を受けたのは亡くなった父や祖父母、ご先祖がいたからであるのは紛れもない事実であり、ご先祖様に感謝するとともに、これから生まれ来る子孫の次世代に何をつないでいけるのか、そのために何ができるのかを問いかけ続けていきたいと思うのです。

それゆえ今の事業である中小企業の海外展開支援の仕事も、収入のためにやっているのではなく、いかに日本企業やベトナム企業が一緒に次世代に向けて成長発展するためのお役に立ちたい、そのための人づくりであり、今まで培ってきた企業経営ノウハウの伝道師たるべき使命を全うして、自分自身の最後を迎えたいと思いを強くしています。