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多様性とポリコレ価値観の矛盾

最近、タバコの吸い殻のポイ捨てがかなり減っているということを感じられている方も多いのではないでしょうか。健康増進法の施行以後、飲食店や公共施設空間での分煙、禁煙が当たり前となり、町のあちらこちらが歩行喫煙禁止区域に指定されました。受動喫煙の問題がクローズアップされ、非喫煙者がいるところでタバコを吸うことが許されなくなったことで、喫煙者の数そのものが大幅に減っていることが大きな要因です。前を歩いている人が歩きタバコをしていると、後ろを歩くほとんどが迷惑と感じることもあり、そういった冷たい視線に耐え切れず、喫煙者も歩きタバコをせずに数少ない喫煙所まで我慢する人が増えたためかと思います。

何十年も前に社会人になったころは私も喫煙者の一人でした。そのときの成人男性の喫煙率は7~8割以上だったと思います。当然会社の事務所ではタバコを吸いながら仕事をしていました。一部の女子社員はタバコの煙を煙たがっていても、なおかつ毎朝男性社員の机の上にある灰皿をきれいに洗ってくれていたのです。現在の状況からは想像もつかないのですが、それが当たり前の社会常識でした。

私自身は元々タバコが体に合っていなかったためか、風邪をひいたときにタバコを吸った際、吐き気とめまいがしたため止めようと決心し25歳のときにピタッと止めることができました。ただ、当時は事務所に喫煙室どころか喫煙コーナーすらもない時代でしたので、周囲がいくらタバコを吸っていても特に気にならなかったと記憶しています。

しかし30歳から7年間のアメリカでの海外勤務経験は私自身の価値観を大きく変えました。

当時からアメリカでは職場での喫煙はご法度でした。事務所でも会議でも一切喫煙できません。一部の喫煙者は外に出てドアの外に置いてある灰皿スタンドの前で吸って戻ってきていました。冬のシカゴではマイナス20度の外気温での喫煙ですから「まさしく修行ですね」と話していました。

そして日本に帰任したとき、日本での職場での喫煙状況に逆カルチャーショックを感じました。今から考えたらあり得ないことですが、このタバコの問題で一時真剣に退職してアメリカに戻って仕事をしたいと悩んだことを覚えています。

帰任したときには、既に事務所でタバコを吸いながら仕事をすることはできなくなっていて喫煙コーナーが設けられていました。当然喫煙コーナー近くに席があった人にとっては煙たくて仕方がなかったですが、一番違和感を感じたのが社内の会議では喫煙が自由であったことです。狭い会議室に部内会議やプロジェクト会議で多くの人が集まって会議を行うとき、煙が充満して耐えられなかったのです。アメリカに限らず欧州でもあり得ないことだったので、さすがに会議では禁煙にしてほしいと何度か上司や人事に提案したことがありました。まだ健康増進法など議論すらなかった時代で、いとも簡単に無視されたことで、これをきっかけに本当に止めようと転職活動を始めたように覚えています。

今では受動喫煙の問題が深刻に受け止められ、最早喫煙をできる場所そのものがどんどんなくなっています。家族も会社の同期も学生時代のサークルのメンバーも今では吸っている人は皆無に近いです。

このように時代の変遷とともに当たり前であった考え方や行動が許されない社会に変わってしまっているということが多々あります。社会的常識や価値観の変化で、潮流の変わり目から取り残されないように常にアンテナの感度を高めていたいと思っています。

多様性の価値観を土台とするポリコレが陥る自己矛盾

タバコを取り巻く環境の変化が社会的価値観の移り変わりとして捉えたとき、昨今の「リベラルな社会」を目指す多様性の価値観を土台とする「政治的ただしさ(ポリコレ)」の思想的な押し付けには以前からある種の違和感を感じていました。

人それぞれ価値観の違いがあって当然です。タバコについても他人に迷惑をかけない限りは、どんなに健康に良くないことであっても自分自身の価値観に基づくものです。それを頭から否定し、喫煙行為そのものを認められないとする「一つのただしさ(イデオロギー)」の価値観の押しつけもときどき見られます。本来の多様性とは「たくさんのただしさ」の価値観を認めるものであったはずです。

今世界中で起きている自分たちの価値観以外を一切認めないイデオロギーの衝突は、人類が滅亡に向かう序章のような気がしてなりません。中国と西側諸国との人権問題に対する捉え方の違いもそうですし、韓国の屈折した反日思想も自国の正しさには一切間違いないことを前提とするイデオロギーの押し付けです。

また他の価値観でも、昨今特に気になるのがLGBTの性的マイノリティを取り巻く価値観です。今やLGBTの考え方について少しでも批判的な意見を出すと、いわゆる自称先進的で人権意識の高いといわれるリベラルから差別主義者として徹底的に叩かれる風潮はいかがなものかと感じています。

私自身も叩かれるかもわかりませんが、個人の性的嗜好やジェンダーに関する価値観も人それぞれだと思っています。決して他の価値観を持っている人に対して、レッテルを貼って「一つのただしさ」だけを押し付けるのは良くないのではないでしょうか。

私の価値観として、「ジェンダーフリー」つまり性別による社会的差別をなくし誰もが平等に公平に行動できるようにしようという考え方は大賛成です。しかし「ジェンダーレス」つまり男性・女性などの性差をなくしていこうという考えには若干違和感があるのです。LGBTのような多様な性的マイノリティ―を持った方々の価値観を何ら否定するつもりはありません。しかしLGBT以外の性的嗜好も人それぞれであり、いわゆるヘテロセクシュアリティ(異性愛)の価値観を持つ人々の中にもいろんなマイノリティ嗜好があってもお互い認め合うことが大事だと思うのです。

男性が女性の美しさや性的魅力を感じたり、女性が男性に惹かれる感情や、愛する異性との間で子どもを産みたいという過去からの異性間の価値観まで否定するポリコレには正直全面的に賛同できないのです。「ジェンダーレス」やLGBGがいくら「一つのただしい価値観」であったとしても、その先にはどのような社会が待っているのかについても考えを巡らせる柔軟性が必要なように思います。

子孫を次世代につなぐことよりも、個人の生き方、自由、人権が大事とする考える方に対しても否定はしません。その美しく正しい社会の実現のためには、それを担保する国の発展が土台であり、どんなに高邁な思想を唱えようとも子孫繁栄がなければ国はもちません。どんなにLGBTに対する差別を根絶し、産まない自由を貴ぶジェンダーレスの社会を実現したとき、その共同体の生産人口は減少の一途を辿り、結果的に国そのものが人口動態の点から消滅してしまう姿が想像できるのです。

タバコに限らずいろんな人がいろんな価値観を持つのは自由でありそれを尊重するべきです。決して一つの考え方をポリコレとして他人に押し付けることで、本来多様性の価値観に土台を置くポリコレの支持者たち自身が、多様性自体を否定してしまっている自己矛盾に陥らないような議論が必要だ思っています。それこそ独裁国家の考え方と何ら変わりがないという点で違和感を感じています。

自由で平等な社会の実現は大事な目標だと思います。一方で自分の世代さえよければ子や孫たちの時代に国、社会はどうなってもいいと考えるのはあまりにも無責任です。なぜなら今の私たちは親や先祖がいたからこそ存在しているのです。では、子や孫たちの次世代につなぐために今を生きる一人ひとりができることとは何でしょうか。