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仏教の教え「心の三毒」から経営の真理に気づく

私は特定の宗教を信じているわけでなく、ごく一般の日本人と同様、葬儀や法事を通じての先祖供養でお寺との関係もありますし、神社に初詣にも行きます。ただ、父親を亡くしてから四国お遍路巡りや西国三十三所参りであちらこちらの寺に参拝して、仏教の教えを勉強することが多くなりました。

この年にして恥ずかしながら、最初は如来様と観音様の違いもよく知りませんでした。菩提寺の浄土教と浄土真宗の違いもわかっていませんでした。しかし、仏教でのお釈迦様の教えに触れるにつれて、宇宙を超える「悟り」の壮大さに驚くとともに、「人は死んだらどこへ行くのか」という誰もが疑問に思い、前世、現世、来世のつながりといった中で今をどう生きるべきなのか問題について、残りの人生に私に課せられた使命という点からも考えることが多くなってきたような気がします。

そういった仏教から得た教訓の一つで、経営に携わる人に是非伝えたいことについて述べたいと思います。

心の三毒とは

般若心経にも一節が出てくる言葉に「貪(どん)・瞋(しん)・痴(ち)」というのがあります。これは「貪欲(どんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」の人間が陥る「苦しい原因」となる煩悩が根源的な三つの毒として説かれています。

いわゆる煩悩には108あるとされていますが、この三毒が最も代表的なものです。この三毒は、毒のように人の心を蝕み、清らかな心を失わせる原因となる三つの心の動き・煩悩を表します。

日々私たちが苦しくて仕方がないという時には、ほとんどがこの三毒に心が毒されているからというのです。この毒から解放される心の持ち方一つで苦しみから解放されると説いています。

本当にそうなのか、いったいどうしたら良いのかと最初は疑問に思っていました。でも調べるほど経営においてもなるほどと思うことばかりでした。

三毒の貪・貪欲(どんよく)

貪欲とは、ごく一般的に使われる言葉ですのでだいたい想像がつきます。「欲しいものに対して執着する心」を意味します。いくら事業で成功しても、もっと儲けてお金持ちになりたい、もっと楽していい生活がしたい、もっと美味しいものを食べたりしたいと際限がありません。

私たちが人生が苦しいものだと感じるときの大半は、あらゆるモノに執着するという煩悩によるものです。執着する心があるからこそ、もしそれらが手に入らなかったときや失ったとき、苦しいという感情が生まれてするのです。

もちろんそれらのモノは人が死んだあとは何の意味もなくなります。お金をたくさん儲けたから極楽に行けたりするわけではありません。全ては空(くう)であるという真理から物事を見れば、そういったモノやお金の拘りも消えてしまい、苦しみもなくなっていくものなのです。

経営においてもお金をいかに儲けるために事業に貪欲になるなんて悲しいことだと感じますし、人の貪欲さにつけこんで詐欺がなくならないのもなるほどと思います。

三毒の瞋・瞋恚(しんに)

難しい言葉ですが、瞋恚とは「怒ること、腹を立てること」を意味します。仏教ではどんなにひどいことをしてくるような人間でも腹を立ててはいけないと教えられています。

人間ならひどいことをされたら当然怒る感情が湧いてきます。お釈迦様の域には達しないのは当たりまえかも知れませんが、それは三毒の煩悩に取りつかれているというのです。「怒り、腹を立てる」心を持つと、人間はそれを鎮めるために相手を恨んだり、仕返しをしたり、あちらこちらで八つ当たりをすることが多いでしょう。でもそれだけでは苦しさからは解放されないのです。

経営者も思うように事が進まないと、怒りに任せて周囲にあたりちらす人もいます。でもなんの解決にもならない毒というのです。なるほど。

三毒の痴・愚痴(ぐち)

仏教において最も愚かなことが愚痴というのです。ワースト毒が「愚痴」なんです。一般に愚痴とは「愚痴をこぼす」という使い方で、仕方のないことや不平不満をこぼすことを意味していると思いますが、仏教での「愚痴」とは、最も愚かな心という意味で、具体的には「恨み・妬み・嫉み・憎しみ」の感情を持つ心が最も愚かで卑しいということになります。

人間は何かうまくいかないことに直面したり、逆に他人がうまく成功したことに対して、そこから学ぶのではなく、他人を恨み、妬み、嫉み、憎しんで、何とか足を引っ張ろうとしたり、卑しくマウントを取りたがることをよく見ます。仏教ではこれこそが最悪の苦しみを生んでいる原因だというのです。

愚痴が意味するのは「真理を知らないバカ」ということです。そしてその真理とは世の中の絶対的ルールのことで、知らない愚痴であるがゆえに愚かな考えや行動を起こすことで苦しみが生まれてくる根源的な原因であるとされています。

世の中の絶対的ルール「真理」とは

「真理」といえば何かオカルトっぽい印象を持ちますが、仏教では非常に単純な概念です。

それは物事には「原因」があるから「結果」があるという絶対的ルールのことです。つまり因果の道理がわからないことを愚痴というのです。その因果の道理をわかりやすい表現をすれば「因果応報」であり、「善因善果」「悪因悪果」「自因自果」といういかなる結果もその原因は自分にあるという考えです。

うまくいかなかったり、苦しい結果となった原因は全て自分自身が過去に巻いたタネにあるのであって、決して「他因自果」はありえません。ややもすれば「失敗したのは誰それのせいだ」とか、「政府や政治のせいで業績悪化した」「コロナのせいで外国人インバウンド需要が消失したことで倒産しそうた」・・・枚挙に暇がありません。でも、いかなる場合でも自分が過去に持っていた煩悩の心によって動いた行動の結果に過ぎないのです。

成功すれば「自因自果」、失敗すれば「他因自果」、そんなことはあり得ないのです。外国の大国の要人の言動を見ていても、誰も自分がやったことが原因となって今の状況を招いているという因果関係を語っている人がほとんどいません。仏教の教えは今更ながら卓越した宗教観を持っていると感じます。

今の結果は、過去に行った行動が原因であるだけでなく、今やっている行動が未来の結果につながる原因となるという、三世(過去ー現在ー未来)だけでなく(前世ー現世―来世)を貫く「自因自果の法則」は、企業経営においても全く変わらない不変の原則であるとつくづく感じます。

今苦しい経営状況というのは、過去動かなったから。今、動かないと未来は変わらない、今事業承継で動かないと未来は廃業しかないというのは経営の真理であると思うのです。