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WHYなきところにイノベーションなし

今週はベトナムのハイフォンに来ています。ベトナム人経営者層20人余りを相手に、経営計画の講義からワークショップのファシリテートを5日間かけて行っています。逐次通訳を挟んでの講義とはいえ、朝から夕方まがぶっ通しですので正直疲れますが、研修生の熱心な取り組みにやりがいを感じて進めているところです。

講義をしている「経営計画」は、単に事業計画書を作るという講義ではなく、そもそも企業としての存在価値である理念や目指すビジョンを振り返り、それを実現していくための事業をどう戦略を組み立てていくかという実践ワークショップを柱にしています。

ビジネスプランを作りにあたり、まず講義の中で強調しているのは企業の存在価値そのものです。企業は先人が作り上げてきた資産、つまり技術やノウハウだけでなく国家・社会の富、設備やインフラ、そして教育して残してくれた人材を活用できるからこそ成り立っていることを深く認識するべきだと思います。言い換えるならば企業こそ価値を大きくして次世代に継承していくべき責務があり、それそのものが存在価値であると思うのです。決して、経営者は単に自らのカネを稼ぐ目的としてのみで企業経営を行うべきではないと思っています。

次世代にヒト、モノ、カネ、ノウハウといった経営資源を引き継ぐことこそ企業に与えられた使命であり、次世代が担う社会経済の発展につなげ貢献していくことを旗印にする企業理念は広く支持されていくのではないでしょうか。

WHYから考える企業理念

この経営塾の講義の中で、パナソニックの創業者である松下幸之助翁の経営理念について語ることもありますが、私はもう少し別の視点から企業理念やビジョンについて触れています。

アメリカのコンサルタントであるサイモン・シネック氏が講演や著書の中で語っている「WHYから始めよ」から企業理念のあり方について紹介しています。

一般に企業が自社の紹介を行うとき、「●●を作っています」「●●のサービスを提供しています」といった「WHAT(何)」を提供するかについて語ります。そして「私たちの製品サービスには●●の特徴があり、こう使えば役に立ちます」と「HOW(どう使うか)」について説明し、だからこの製品を使ってくださいと「WHY(選ばれる理由)」というアプローチをします。

シネック氏は、人は「WHAT」からのアプローチでは動かされない、「WHY」にこそ感動を呼び動かされるのだと強調し、企業経営はWHATではなくWHYから定義するべきであると、具体的事例としてアップルについて取り上げています。スティーブジョブズは常に自らビジョンを発信し、そのビジョンを実現する商品を次から次への世の中に送り出してきたのでした。

WHYなきところにイノベーションなし

シネック氏は、WHATから発想する企業ではイノベーションは起きないと言い切っています。事業ドメインつまり「誰に・何を・どのように」を定義するときに、そもそもなぜその事業をやるのか、どういうビジョン、目指す姿であるWHYの意識なしに、事業ドメインを考えると決してイノベーションは起こらないという考え方に共感を覚え、ベトナムでのワークショップでも、必ずビジョン構築から取り組んでもらっています。

ややもすれば経営改革だ!と叫んで取り組む企業の多くで失敗するのが、どういう新規事業を開発するのか、新製品、新販路開発といった「WHAT」から発想していることが原因であるように思います。

シネック氏が事例として取り上げたことの一つに、1800年代のアメリカの「鉄道会社」があります。当時鉄道会社はアメリカでは最大の企業体でした。「われわれは鉄道会社だ!」という意識から抜けきれませんでした。今やアメリカの鉄道は物資輸送の主体ではありませんし、企業としては衰退しています。何故なら20世紀に入って新たなテクノロジー、つまり「飛行機」が出現したからです。またモータリゼーションの加速により、物流の機動性から輸送ビジネスはトラック輸送が主体になってしまいました。スピードにも機動性でも市場環境の変化についていけなくなったのは鉄道というWHATからの視点しか持てなかったためなのです。

しかし、もし当時彼らが「我々は大量輸送ビジネスにかかわる先駆者だ」と認識できていたなら、もしかしたら当時の鉄道会社が今の航空会社を全て所有してたかも知れないのです。ドメインをWHYから発想することの重要性に気づかせてくれます。

WHATで自分を定義してきたメディア産業の運命

当時のアメリカの鉄道会社と同じ状況にあるのが、オールドメディアと言われる日本のマスコミです。彼らはいまだ自分たちは大きな社会的影響力がある存在として大きな誤解をしており、徐々に衰退する運命を持っていることに気づいていません。

テレビ局などは70年間も免許事業の既得権益にあぐらをかいて自ら改革をしてきませんでした。その間テクノロジーが一気に進化し、もはや放送と通信との境目がなくなってしまい、テレビであることの優位性は一気に縮小していくことでしょう。

また海外のほとんどで多局化が進み、桁の違う放送メディアとネットによる情報の多様化が進んでいます。ところがいまだ日本では東京キー局といわれる民放5局の寡占状態がずっと続き、しかもその番組制作も均質かつ低俗化には目を覆うばかりです。政府もようやく放送制度改革に乗り出し、電波オークションや放送法の規制緩和などの検討が進められているようですが、彼らは既得権益を奪われる危機感から、全局あげての反対キャンペーンを繰り広げようとしています。

そもそも放送局自身が発信する経営理念などまともに聞いたことがありません。なぜ放送事業をやる存在価値があるのか、なぜ今の放送局にのみ免許を与えられ続ける存在価値があるのかといったことに正面から主張できるところはあるのでしょうか。以前「面白くなければテレビじゃない!」というスローガンを掲げたテレビ局は今どういう状況に追い込まれているのかおわかりでしょう。

既存放送局による寡占が続き、かつニュースの信頼も失い、番組自体がつまらなくなってくると、当然視聴者は逃げていきます。実際、若年層はテレビを見なくなっています。新聞も同様の状況に陥っています。そうなるとメディアの収入は激減していくのは火をみるより明らかです。実際、テレビの視聴率は落ちる一方で新聞も信用できない嘘メディアとしての評判が高まり発行部数も下降しています。企業にとっての宣伝媒体のしての価値も下落し、ネット広告の出稿が急増しているのです。

こういった環境の変化に対し、オールドメディアは政府の規制緩和の取組みに反対一辺倒で必死なわけです。自らの反省は全くなく、この延長線上には衰退の運命しかないのではないかと、多チャンネル化が一気に進んでいるベトナムで感じています。